先日のFRENZ2014にて公開しました、「山峡に棲む声」。
この作品は2つの作品をオマージュして制作しました。
ひとつは東映「ゴジラ」の源流ともなった、故レイ・ブラットベリ氏著の短編「霧笛」。
この作品は2人の灯台守が、灯台の発する霧笛に誘われてやってきた、古代生物の生き残りと遭遇するお話です。
もう一つは岡田冨美子氏作詞の童謡「怪獣のバラード」。
ある日、荒涼とした砂漠に住む大怪獣が、キャラバン達の鈴の音を耳にし、それがきっかけに砂漠を捨て海を目指す、という内容の歌です。
どちらも「孤独な怪獣」という点で共通していますが、さらに両者とも「音」が鍵になってきます。
音はそこにモノがあるから発生して、空気を伝って耳にまで泳いできます。
ポルターガイストとか超常現象でない限り、そこに何かのモノがなければ音は発生しないのです。(たぶん)
つまり、音がする=そこに音を発するモノがある=モノの存在を証明している、ということになると思うんです。
灯台の霧笛、キャラバンの鈴、夜道を行くパトサイレン、閑静な住宅街の遮断機、夜汽車の汽笛。。。
どれもこれも「僕はここにいる」って叫んでるわけです。
時代とともに音がたくさん生まれました。
古代にはなかったであろう、ケミカルだったり重低音な機械音もまたしかり。
もちろん生まれる音があれば消えて行く音もあるのです。
本作に登場する竜は漢字で「竜」と表記します。
「龍」としなかったのは、「青龍」や「白龍」、西洋で言うところの「ドラゴン」、という神格的・神秘的なイメージとは違って、「恐竜の生き残り」や、もっと「生物」に近い存在としてデザインした点にあります。
例としてはネス湖のネッシーや、オカナガン湖のオゴポゴのような水棲UMAみたいな存在です。
竜は大きな湖で、何万年ものあいだ独りで過ごしていました。
それだけの年月を孤独に過ごせば、かつて仲間たちと過ごした思い出からくる孤独感も、もはや竜にとってはどうでもいいことになっているに違いありません。
孤独を日常にして、湖の両壁を世界の果てにして、静かに人知れず「竜」は暮らしていたのです。
近代文明を身につけた人類は徐々に新天地を開拓し、営みに必要な燃料を求めるようになります。
作中に登場する「轟山炭坑」も、かつては都市部の営みを支える重要な使命を帯びていて、採掘される石炭を蒸気機関車によって港や街に毎夜輸送していました。
しかし、竜が湖を出る頃には、社会ではすでに公害問題やエネルギー転換からの無煙化運動が進み、その影響はこの炭坑街にも如実に現れていました。
作中、一瞬登場する横断幕や、留置線に停車中のディーゼル機関車はその証拠です。
さらに竜はこの街の信仰対象になっていました。
作中にも「轟山龍神」という祠が登場します。
これは山々から轟く機関車の汽笛の山びこ(竜の鳴き声)をアニミズム信仰に例えたのと、前項で「竜」と表記するところとの一つのパラドクスです。
竜の声は人々の住む町まで届いていたのです。
生き物として孤独を叫ぶ竜の声は、人々にとって、あるいは機関車の汽笛が山に反射した山びこ、あるいは深山から轟く「神の声」であったわけです。
とくにその後については考えていません。
新天地を見つけに旅に出たか、すべてに絶望して死んだか。
実は、最後のナレーションだけは人間サイドのコトを語っています。
「竜がその後どうなったかはわからない」というのは、あくまで人間サイド。
人々は不確定ながらも、竜の声によって竜の存在を認知し、岩盤を打ち破った竜を目撃することで、初めてその存在を確信したのです。
つまり、「竜のそれ以前もどうであったかわからない」のです。
逆に竜も蒸気機関車の汽笛を聞くことによって存在を認知し、初めて出会うことで相手を知ったのです。
音のしなくなった今では、竜の存在を確かめる術はないのです。
そして物語は、無音のまま静かに終わるのです。